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瑞鶴荘に関する一年前のメール

 最近また、水面下で瑞鶴荘に関連した動きが急なようで、ふと自分ちに放り込んでおいたテキストをこっちのブログにも再掲することを思いついた。何でか知らないけど、検索かけると自分のサイトよりこのブログの方がヒットする確立が高いんだよね。最近はユニークユーザー100人欠けてるのに…。
 ま、そんなことはともかく、なるべく多く人目に触れさせたいんで、再掲です。


●●さんへのメール(2008.2.29)
 #文中、人名については敬称略

●●さま

 銚子の秋元です。
 「要綱」そして論文コピーのご送付を感謝申し上げます。昨日は仕事でくたくたになって、帰宅するなり眠りに落ちてしまいました。

 「△▽△▽△▽△▽」は、貴兄にメールさせていただいた翌日、偶然図書館で『▲▼▲▼▲▼』『○●○●○●』を目にしたので拝読させていただいたところでした。
 遅々として進まぬ日本考古学界の対象認識にいまさらながら驚くと同時に、●●さまをはじめとする気鋭の研究者層が出現していることに勇気付けられます。皆様のご活躍が、学界だけでなく行政施策に反映されるようになることを願わずにいられません。

 さて、同封いただいたお手紙について若干コメントさせていただきたいと思いますが、その前に小生がかかずらわっている地元の近代<遺跡>について少々説明しておきます。

 銚子市の東端、太平洋を一望する犬吠埼一帯は、近世末期よりその風光ゆえに観光地として知られてきましたが、その犬吠埼の一角に1905(明治38)年に完成したのが「旧伏見宮家別邸瑞鶴荘」です。
 造営者は伏見宮家第22代当主・貞愛(さだなる)親王で、おそらくは1903(明治36)年8月30日に犬吠埼灯台を訪れたのがきっかけで、この地に老後の別荘を建設することを決断したのではないかと思われます。
 瑞鶴荘はその年暮れの12月から造営が始まり、翌々年の2月4日に竣工、以後18年間、貞愛親王は毎年夏と冬の2ヶ月間ほどを瑞鶴荘で過ごしました。明治という時代背景を勘案しても、当時天皇と並ぶような地位にあった人物が銚子の地に別邸を営み18年間も通い続けた意味は大きいと思います。
 現在、約3万平米(1960(昭和40)年代に瑞鶴荘敷地の一部を削り取って海岸道路が建設されているため、往時はさらに広い面積だったと考えられます)の敷地内には、木造平屋の主邸および茶室、撞球場、潮見亭と名付けられた海岸風景を観望する庵、倉庫(これは後年の築造かも知れません)、矢場などの施設に加え、海景を借景とする主庭と正門から主邸にいたる間に広がる園路を巡らした庭園が存在しました。また、瑞鶴荘が造営された海岸段丘を下り、直下の海浜に接する部分には「小滝の壷口」と呼ばれた滝状の小断崖があり、その脇にも平屋建ての庵が存在しました(これは造営当初から存在したかどうか不明)。
 伏見宮は1923(大正12)年2月4日に瑞鶴荘で重篤の状態となり、その日のうちに東京へ搬送されて死亡しています。
 主亡き後の瑞鶴荘は、その後、ヒゲタ醤油の社長も務めた浜口麟蔵(二代目吉兵衛)に譲られ、さらに1933(昭和8)年には銚子出身の実業家・岡田幸三郎(後に台湾の国策会社・塩水港精糖社長を務める)の所有となり敗戦を迎えます。浜口時代の様子は皆目不明なままですが、岡田時代の瑞鶴荘でのエピソードは岡田の長女・遠藤順子(遠藤周作夫人)の著書『ビルマ独立に命をかけた男たち』PHP研究所2003.8.25に触れられています。
 敗戦の混乱の中、岡田は旧植民地および旧占領地に散っていた部下とその家族の帰国資金を得るために、瑞鶴荘を売却することにし、その相手に財界人であり政治家でもあった中村庸一郎を選びます。中村時代の瑞鶴荘には、中村本人はほとんど足を向けなかったようですが、代わりに中村の会社で役員をしていた家族が中国の青島から引き揚げて来たため、彼らの居住場所として利用させていました(1955・6〔昭和30・31〕年頃まで)。
 そして1965(昭和40)年、瑞鶴荘に転機が訪れます。
 銚子と縁の薄かった中村に、銚子市の外郭団体・銚子市開発協会が購入話を持ちかけ、約一億円で手放させました。当時存命中だった岡田は、この話しを聞いて「『そりゃいいことをしてくれた。おちつくべきところに落ち着いて』と心からよろこんで」(東日本新聞1965.1.5付け記事「瑞鶴荘その他」香取任平)いたそうです。しかし、岡田の安堵も束の間、市開発協会は瑞鶴荘の保護活用には目もくれず、その年の暮れには国土総合開発に売却してしまいます。その後、瑞鶴荘はさらに所有者が変転し、主邸や庭園は見る影も無く荒廃して行きました。そして1982・3(昭和57・8)年には、新たに所有者となった地元スーパーの資本によって、老朽化した主邸その他の建築物は解体撤去され、ジャングルのように変わり果てた庭園址だけが残されることになりました。
 ただ、幸いなことに、建築物解体後の1983(昭和58)年12月、現場に出入りしていた業者からの連絡で、当時東京農業大学助手だった鈴木誠氏と学生たちによって、瑞鶴荘庭園の主要部が実測調査され、翌年3月に実測図面を掲載した簡略な報告書が作成されました。さらに1985(昭和60)年3月には鈴木誠氏によって「旧伏見宮家別邸銚子瑞鶴荘の庭について」と題する報文が造園雑誌第48巻第5号に発表され、少なくとも造園・庭園史研究者には周知の場所となったわけです。
 度重なる転売にもかかわらず決定的な破壊を被ることなく今日まで残された瑞鶴荘ですが、現在かつてない危機的状況に直面しています。経営的に困難な事態に陥った瑞鶴荘所有者の地元資本が、近年の新たな観光需要に乗って犬吠埼に温泉スパ建設を目指すデベロッパーに、施設建設用地として瑞鶴荘を売却したのです。今回は従来と違って土地に対する投機が目的ではなく、充分実績を積んだデベロッパーによる開発計画ですから、文書上は環境アセスに対する対策もほぼ万全です。地元関連産業に対する根回しも早くから実施して来ましたから、表面切って反対の声を上げる者はほぼ皆無です。かく言う小生自身も、施設建設には反対するものではありません。ただ、その場所と施設配置計画があまりにもひどい。荒廃して見る影もなくなったとは言え、100年以上残されてきた特徴的な近代庭園が、鈴木氏らの実測調査以外何らの学術調査もなされずほぼ完膚なきまでに破壊しつくされようとしているわけです。
 小生は偶然にも2006年2月4日に現地を実見し、この地域ではついぞ見かけたこともない巨大な石組による枯流れや枯池、主邸基礎部分の縁石など、多数の遺存物があるのを発見しました。そこで「これは開発が許可されるとしても発掘調査が必要ではないのか?」と感じ、6日に地元市教委の担当者と電話で話しましたが、先方は「お話は聞いておきますが、何もしません、できません。業者から話が来たら、そのような場所であることは伝えます」と資料に当たることさえほのめかすことはありませんでした。小生はその応対で「やる気全く無しだな…」と感じましたので(銚子市では小生が高校生だった30数年前からずっとこんな調子です。いや、戦後ずっとと言った方が正確かも知れません。時々瞬間的に多少意識のある職員が担当になったとき以外は…)、市の図書館に依頼して瑞鶴荘関連の文献がないかどうか確認してもらい、翌日には2種類の鈴木報告を入手、瑞鶴荘が想像した以上に価値ある場所であることを知ったわけです。

 話が長くなってしまいました。ここから先はお手紙の内容とも関わりますので、レスふうにコメントさせていただきます。

【●●さんの「地方自治体の判断は、中央省庁である文化庁の指針『埋蔵文化財の保護と発掘調査の円滑化等について』(庁保記第75号)に拘束されており、自治体間に見られる多少の差異は、こうした枠組み内での解釈の違いではないか?」(大意)との指摘を受けて…】

★おっしゃるとおりだと小生も思います。
 千葉県の「基準」に実際に目を通すまでは小生も同様に考え、「ではなぜ瑞鶴荘が埋蔵文化財として発掘調査を要する対象として認知できないのか?」と疑問に思ったのです。庭園学的な価値については既に鈴木報告が明らかにしています。生きた庭であればその評価をもって開発に対する何らかの規制を行うことも可能でしょうが、瑞鶴荘の場合には荒廃し、半ば埋もれた状態で、鈴木氏自身、矢場や園路の存在は指摘できても平面図に記録することもかないませんでした。実測図を作成できたのは、あくまでも庭園を構成していた石組や配石など「主要」部分だけなのです。これでは瑞鶴荘の全体構成はわかりませんし、そこに刻まれた歴史もわかりません。やむを得ず全面破壊するにしろ、遺存物に何らかの価値を見出して一部を保存するにしろ、やはり考古学的な発掘調査は必須だと思えるのです。
 しかし、市も県も、共に考古系の担当者が現地踏査をしたにもかかわらず開発に対して「支障なし」と回答しているのです。後日明らかになったところでは、現地踏査の際、市の担当者は鈴木報告に掲載された実測図を携えて、今でも遺存するそれらをすべて確認したとのこと。それでもなお「支障なし」なのです。
 #あえて銚子市をかばうなら、県の回答とは違って、わずか1行ですが「開発計画地は、旧伏見宮別邸が所在していた土地であったため、敷地内に残る歴史的・文化的遺産についての取扱いについて、事前協議をお願いしたい」と付記されていること。
 小生はまだ県教委の担当者と直接対話していませんが、市の担当と話す中でわかったのは、県の「基準」には「現状では埋蔵文化財が確認されないと判断される区域」として「第5条 現状では埋蔵文化財が確認されないと判断される区域は,次の各号に掲げるとおりとする」という1条5項目が存在することです。この5条の中の第3項「(3)既に県教委又は市町村教委から『現状では埋蔵文化財の所在が確認されない』旨の回答が有印文書で出されている区域」というきわめて特異な1項があり、これによってあれだけ瑞鶴荘にさまざまな遺存物がありながら埋蔵文化財としては認知しない、させない根拠としているのです。
 瑞鶴荘の場合、「現状では埋蔵文化財の所在が確認されない」と回答が出されたのは80年代初頭の地元資本による開発計画の提出があった時期です。この間、学界はもとより、文化庁自身の文化財に対する認識にも変化がありました。近世・近現代については相変わらず厳しく寒々しい状況が続いていますが、文化財保護法自体のほころびを取り繕うような形で「近代遺産」なる範疇も設けられ、歪んだ形にしろ保護対象を拡大しているのは間違いないと思います。そうした中で千葉県の「基準」に見る5条およびその3項が、果たして法理にかなうものであるのか?自己免責を可能にする条項は、過去の自らの過失に蓋をするものではないのか?そんなことで責任ある文化財行政を遂行していくことが可能なのか?そうした重大な疑義を生じさせているのです。
 この間、●●さんからお送りいただいた○○の文書以外にも、複数の自治体から「基準」に該当する文書を取り寄せてまいりましたが、いまのところ千葉県教委の「基準」にだけ、埋蔵文化財の保護活用を任務とする立場にもかかわらず、自らの免責を可能にする特権的条項が記載されています。このことを●●さんはどうお考えになるでしょうか?

【●●さんの「『より大きな矛盾』は、文化庁の埋蔵文化財に対する段階的恣意的判断基準にあり、地上文化財については別基準で『近代文化遺産』として保護施策を進めていること。そうした構造的矛盾を踏まえつつ、地元教育委員会の独自判断を引き出し、そうした事例を集積しながら全体の認識枠組みを変化させる」(大意)との提言を受けて…。】

★●●さんのご指摘はもっともですし、瑞鶴荘の扱われ方に異議を唱えている友人は、まさに●●さんと同じことを指摘しています。でも、いま小生は、そうした矛盾について最前面に押し出して瑞鶴荘の問題に取り組もうという意思は希薄です。こと瑞鶴荘に関して、県や市が「埋蔵文化財ではない。開発に支障はない」としている根拠は、県「基準」の5条第3項にあるわけですから、まずはその異常さ、傲慢さを衝いてみたいと思います。法の運用に自治体間で差があっていいはずもなく、また千葉県教委の免責条項は、許容し得る自治体間の差異を逸脱しているものだと思われます。
  《 以下、略 》

長文、切にご容赦。

秋元健一
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Re: 瑞鶴荘 

貴重な情報のご提供ありがとうございます!
  • posted by あきもと 
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  • 2011.11/23 10:36分 
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  •  
  • 2011.11/22 22:19分 
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