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【銚子市立総合病院問題】資料:大内恭平『河童奮戦記』(2003.07.11)より

河童奮戦記
銚子市立病院が銚子市立総合病院として生まれ変わったのは1984年のこと。老朽化していた市立病院を再生したのは、「銚子市立総合病院建設」を公約として市長を二期務めた大内恭平氏だった。
 氏の足跡を記した『河童奮戦記』から、病院について記述されている部分を引用する。



【同書p244 l1-8】 
 私の出馬に当たっての唯一最大の公約は、『銚子市立総合病院の建設』でした。当時の市立病院は、内科・外科・精神神経科・結核病棟のみで、精神神経科は充実しておりましたが、その他の診療科は医者も数人だけで、また、建物も老朽化著しく、医療設備の面でも遅れており、看護婦が「この病院では手術をしない方がいい」と言ったというもっともらしい笑い話もあったほど。私は、「政治の原点は市民の命と健康を守ること」と考え、総合病院建設を公約として掲げましたが、同時に、「もし、総合病院ができなかったら、次の選挙には立候補はしないと思うが、もし出たら、市民の皆さん、私を落として下さい」とお願いしました。

【同書p286 l1-p287 l5】
▼昭和五十七年の選挙は、市立総合病院計画の進展状況説明を兼ねた選挙運動
 大内の対抗馬・中里栄一は、昭和五十四年の市議会議員選挙で落選し、浪人の身であった。大内は、中里相手に戦うことを、
「市会議員にも落ちるレベルなのだから、勝って当然だ。それならば、今、着工の準備を進めている市立総合病院の”青写真”を持って市民に説明しながら選挙戦を進めれば、一挙両得になるではないか」
と判断。市長選日市立総合病院計画の市民への説明会という捉え方をし、青年館などに市民を集め、総合病院建設へ掛ける情熱を語り、また、具体的な総合病院像を解説するビデオも上映した。
「このビデオは、『これからは選挙も映像の時代だ』ということで、昭和五十七年の年明けにJOJOに依頼し、故・内田良平さんにシナリオとナレーターをお願いし制作したものです。題名は、『今、わたしたちの願いは…』で、内容は、私の総合病院に掛ける熱意を映像にしたものです。ちょうど立体模型が出来上がっておりましたので、映像とするにはもってこいのチャンスだったのです」。
 ビデオは、多くの銚子市民が旭駅に降り立ち、旭中央病院行きのバスに乗り込む映像と市立総合病院建設の必要性を語る内田良平のナレーションで、スタート。大内が各省庁や日大医学部へ足を運ぶシーンや、予定している診療科目の説明などが入り、最後のシーンは立体模型が登場。全二十分のビデオで、VHSとべータマックスの二種類が完成した。
「中里さんが立候補したとはいえ、私には一期目ほど危機感がありませんでした。むしろ楽勝と思っておりましたので、現職の利を生かして、市立総合病院の進展状況の説明と、市民啓蒙運動に主力を注ぎました。結果は、やはり投票率が悪く、中里さんは私が思っていたよりは得票したのですが、当選は前回に比べると楽なものでした」。

【同書p296 l10-p307 l1】
▼銚子市立総合病院竣工までの概要
 大内は、昭和五十三年夏の対嶋田隆との市長選において、『銚子市立総合病院の建設』を唯一最大の公約として市民に訴え、支持され、自分自身も予想していなかった“当選”という金星を掌中に握ることができた。当然の結果として、当選直後の銚子市議会九月定例会においては多くの議員から、市立総合病院建設事業の今後の見通しや、地元医師会との協議交渉についての質問がなされた。
 ここで、改めて市立総合病院の建設計画について歴史を辿ってみたい。というのは多くの市民は、『大内が市長になってはじめて、総合病院建設計画が持ち上がった』という誤った認識を持っている
からである。もちろん、迅速果敢に総合病院化のための行動を起こした市長は大内が初めてである。しかし、嶋田市長時代に、すでに市議会において、
「銚子市立病院があるにもかかわらず、重症や難病の場合は、旭中央病院を受診する市民が多いが、施設の拡充を図り市立総合病院としてはどうか?」
「救急・夜間の体制を整え、かつ市内の個人病院では対処しきれない二次的三次的医療を行える医師と高度医療設備と技術を持った病院にすべきである」
という意見が多く、また、
「結核病棟と精神病棟に重点をおいた病院の性格を、時代に則したものに変えていくべきだ」
という意見も少なからずあった。嶋田も、市民世論に応ずる形で、昭和四十九年の市長選直前になって、市立総合病院の建設を施策に取り上げるに至り、当選後の九月議会では、総合病院化するための調査費を補正予算に計上したという主旨の答弁を行い、昭和五十年には厚生省病院管理研究所に計画・調査を依頼した。その後、嶋田市政においては市立総合病院化は、建設用地として市内春日町・銚子警察署下の住宅土地用地(開発協会所有)とその周辺を見込んでいたものの、周辺用地の買収が二年という歳月をかけたにも関わらず結局は不成立に終わり、暗礁に乗り上げたのである。時は、昭和五十三年春、大内は市立総合病院建設を公約に掲げての立候補を表明した。
 大内は、昭和五十三年夏に市長に就任して以来、『市民の生命と健康を守ることが政治の原点である』との信念、そして唯一最大の公約を実現すべく、市立総合病院建設に命をかけ文字通り東奔西走した。クリアすべき問題は多かったが、その中でも銚子市医師会との協議と総合病院化の合意を取りつけることは、急を要した。昭和五十三年九月議会において大内は、
「これは私、就任する前でしたけれども、福田総理のお宅で福田総理にお会いし、そしてまた安倍官房長官にもお会いしまして、私のぜひやりたいことはこの病院なので、何とか銚子の病院のめんどうをみてくれと言いましたならば、やはり、医師会との連携が一番大事だから、その医師会の話し合いをまずやるべきだろうと…。医師会の了解が得られたならば全面的にバックアップします、というような話も聞かされたわけでございます。そういうことで、まず医師会の了解を求めるということを早急にやらなければいけないということで、この議会が終了した直後、十月十六日に医師会の方々と打ち合せをするというふうに現在取り決めております」。(昭和五十三年九月銚子市議会定例会会議録より)

▼市立総合病院建設について医師会と会談
 大内と医師会との初の会談は、大内の答弁通りの昭和五十三年十月十六日に開かれ、医師会からは関谷武光医師会長ほか、間山哲男・野平藤男両顧問が参加し、大内から市立総合病院の性格や予定している規模、用地などの基本的建設構想の説明が行われた。これを受けて銚子市医師会では、開業医として受ける影響を最小限に食い止め、一方で、銚子市の地域医療のレベルを市側と連携して上げるべく、病院の診療科目や病床数などの基本的合意事項を医師会としての統一意見としてまとめるために適正配置委員会を設置した。
 銚子市と医師会との協議としては、昭和五十四年三月、四月、六月と三回にわたり市立総合病院構想説明会が開かれている。協議の成果が見られたのは第三回説明会においてで席上、関谷医師会長が、
「医師会は総合病院の建設に協力する方針である」
と明言。後日、『一般開業医と競合することのない地域住民の要望に沿った第二次的第三次的な役割を主として果たすような病院にしていただきたい』等五点にしぼった要望書が医師会から銚子市へ提出され、大内はこれを了承した。
 厚生省病院管理研究所に策定を依頼していた『総合病院基本構想』がまとまったことを受けて、昭和五十四年十月、市長の諮問機関・銚子市立総合病院基本構想審議会が発足。昭和四十年代初頭から市民が待ち望んでいた総合病院化が、ようやく具体的になったのである。審議会の委員は、市議会議員六名、学識経験者八名、市民代表八名に、審議会長として千葉大学教授の永田一郎氏と、医師会代表の関谷武光会長・片海宣光副会長・西原勝雄副会長が加わった。基本構想の骨子は、『住民にとっての予防から治療に至る包括医療の核となるよう高度医療体制に整備に力を入れることと併せて、夜間・休日診療など救急医療体制をも整備。また、市内開業医との連携の上、二次的三次的医療に主力を注ぐ』こととし、地域医療レベルの向上、既存病院との競合を避けることも配慮。診療の対象は、一般・精神・結核として、診療科目は内科・外科・小児科・皮膚科・泌尿器科・歯科.精神神経科、整形外科・産婦人科・眼科・耳鼻咽喉科・放射線科・心療科とし、総病床数は総枠は従前通りの三七三床としながら、内訳を精神神経科を従来の二二六床から一五〇床へ七六床減、結核病棟を五五床から二五床へ三〇床減とし、逆に一般病床は増床する。また、人工透析装置や集中強化治療室など高度な医療体制にも力を入れ、用地は、市立病院敷地と旧老人ホームの敷地を充てるなどの具体策が出来上がった。

▼建設費を抑えるにはどうしたらいいか?
 市立総合病院基本構想審議会との協議、そして厚生省病院管理研究所の策定を受け、大内がまず第一に考えたのは、
「試算で八○億円とはじき出された病院建設費を、いかにして抑えるか?」
ということであった。市立総合病院に求められる高度な医療資質、高い診療機能を保持しながら、公共性と経済性のバランスをいかにしてとるか?大内が出した結論は、
「新たに病院用地を取得するのではなく、既存の市立病院の用地と旧老人ホームの敷地を有効利用し、土地の取得費用をゼロに抑えることが不可欠だ。用地取得費がなくなれば、建設費は八○億円から五〇数億円になる」
というもので、市議会や審議会からの同意を得ることができた。また、市財政面から見た総合病院化の可能性も一気に脹らみ、昭和五十五年五月には銚子市医師会から総合病院建設に対する同意書が提出されたのに続いて、同年十二月には市議会内に総合病院建設特別委員会を設置、五十六年度当初予算案に病院建設事業費が計上された。

▼医師確保の難関
 大内が市長に就任してから二年の歳月を経て、銚子市立総合病院がはっきりとした形を持った実現可能なものとなり、
「これで市民に約束した総合病院が実現しそうだ」
と一息入れたのも束の間、大内の前に難問が突き出された。
「それは、十六科目への診療科目拡大に付随した医師を確保するという問題でした。一科目で最低でも二名の医師が必要としても、三十名前後の医師が必要となるわけで、私は、当初、千葉大医学部から医師を派遣していただくことが最善であろうと判断。昭和五十六年から三十数回にわたり千葉大へ足を運び、また、当時の市立病院長だった外口正太郎先生も千葉大出身ということで何度かご一緒していただきました。当初、千葉大からは『何とかしましょう』という前向きなご返事をいただいていたのですが、回を重ねるたびに、その返事はあいまいなものになり、確約を頂けないまま、病院建設許可申請の提出期限が迫りつつありました」。
 大内は、
「三十数回という千葉大訪問に掛けた時間とエネルギーは、浪費であった」
と見切りをつけ、千葉大以外の大学から医師を派遣してもらうことを決意。日大医学部出身の内田征志(内田病院々長)や長島産婦人科院長の紹介で、新しく生まれようとしている銚子市立総合病院を日大の関連病院とすることに決定し、すみやかに派遣する医師の名簿をもらうことができた。
「千葉大にも色々な事情があったのでしょう、三十回以上足を運んでも結果は良くないものに終わり、一方で申請期限が迫り内心焦りを感じていたのですが、日大は即座に医師派遣の対応をしてくれ、感謝しています」。
 めでたく許可申請が受理され、銚子市立総合病院第一期工事が着工したのは昭和五十八年一月で、この間、中里が対抗馬となっての市長選が行われ、大内は無事、銚子市長二期めへ突入。第一期工事竣工は五十九年三月で、同時に銚子市台町に医師住宅も完成。
「医師住宅は四階鉄筋コンクリート造りですが、当初の予定ではエレベーター設備はありませんでした。私は、『医師の皆さんは、急患などで疲れてお帰りになることも多く、エレベーターが必要だ』と提案し、設計を一部変更してエレベーターをつけました」。
 総合病院名称使用許可は同年七月で、これより銚子市立総合病院と改称し、十月からは救急告示病院となった。

▼銚子市立総合病院誕生、無上の喜び!
 様々な苦難を乗り越え、晴れて銚子市立総合病院が誕生した喜びを、大内は、平成六年に出版された『銚子市立総合病院開設十周年記念誌』に寄稿。超難産であった開設までの産みの苦しみ、竣工の喜び、病院づくりに託した為政者の想いなどがしみじみと綴られている。
『開設十周年を祝して  前銚子市長 大内恭平
 このたび市立総合病院が建設十周年を迎えましたことまことにおめでとうございます。総合病院の建設にかかわった当時の市長として感慨無量のものがあります。
 十年一昔といいますが、早いもので、昔日の感がいたします。建設当時はいろいろなことがありまし
たが、その中で忘れ得ぬ二、三の思い出を挙げてみたいと思います。
 私は市長時代、市政の取り組みの基本理念として、『人の生命と健康を守ることが政治の原点である』ととらえ、最も市民要望の強かった総合病院建設を唯一最大の公約としてその早期実現に全力を挙げて取り組んできました。
 もともと銚子市には精神神経科、内・外科、結核を主とした市立病院がありましたが、診療機能の充実した近代病院としての総合病院の早期設置を要望されており、また、地域医療の充実・向上の見地から、その整備が不可欠なものでありました。
 しかし、総合病院建設には、幾多の課題があり、必要医師数の確保もその一つでありました。このため千葉大学医学部へ三十数回もお願いに通いましたが、今となってはよき思い出となっています。結果的にはいろいろな事情がありまして、早急に派遣は困難との経緯があり、長島先生、内田先生にご相談しましたところ、早速、日大医学部へお取次ぎを頂き、最終的に三宅医学部長(当時)の温かいご配慮で、日大医学部の関連病院として、当院を位置づけていただきました。今、改めて三宅先生、鈴木先生のお力添えに深く感謝申し上げております。
 また公立病院の整備充実を図るには、地元医師会の同意が必要条件でしたが、私は誠心誠意、総合病院の必要性を訴えてまいりました。医師会の先生方には温かいご理解とご協力を示され、賛成していただいたこと、本当に嬉しく思いました。
 ところで、病院のロビー(待合室)の右手の壁面に”白涛図(はくとうず)”という名の大きな絵が掲げられていますが、これは十一枚からなる陶芸品です。この絵の原画は市内居住の渡辺学画伯の心血を注がれた大作でして、制作に約半年をかけられたそうです。当時、このような陶芸品は滋賀県信楽町にある大塚オーミという工場でしか制作できませんでした。先生は、原画の色が陶芸品にどのように活されるのか、数回も現地を訪れ、工場の技術者とともに何回も試し焼きをされたそうです。技術者も先生の熱意を感じ、種々研究した末、今まで出し得なかった色が出せるようになったということで、この作品に対する先生の情熱が伝わってきました。この陶芸品は約二千年の耐久性があるとされていますので、今後病院を改築するようになっても、活かしていただきたいと希望しています。市立総合病院も建設当時と今とでは、医療の内容も質、設備面とも大きく前進し、名実ともに市内の中核病院と
して「市民の命と健康」を守ってくれる存在となってきました。患者数も最初の推定数を上回っているようです。
 医療の進歩は日進月歩であり、これに対応していくことは容易でないと考えられます。医療設備等の近代化整備には相当な資金を必要とし、よりきめ細かな診療や看護が必要となってくるでしょう。反面、近年の医療費の増大傾向から診療報酬が抑制され、最近の病院経営は困難を極めていることは、広くマスコミ等で報道されています。このような状況下にありましても、開設者、病院各位のご熱意により、市立総合病院のより一層の発展を期待してやみません。』

【同書p326 l1-5】
▼市制施行五十周年記念式典に川村芳次・初代市長を招待する
 川村市長を私費で招待してから四年後、昭和五十八年二月十一日は、銚子市制施行五十周年の記念すべき年で、初代市長の川村芳次も式典に招かれた。当初の式典プログラムでは、川村初代市長の挨拶は、五分程度”と予定していたが、実際にマイクの前に立った川村の話は、三十分にもおよぶ大演説となった。

【同書p327 p6-9】
 その後、川村初代市長からは、市制施行五十周年を祝い、植樹費用も全て含んだ”市の木・さざんか”が数百本寄贈された。これは、現在、銚子市立総合病院周辺の沿道に植えられ、厳寒の季節に赤い花を咲かせ市民の目を楽しませている。川村芳次は、昭和六十二年十一月二十七日に九十七才で没している。
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